雁股の泉
保元の乱に敗れた源為朝が琉球に渡ろうとした際に時化に遭い、喜界島の沖合いを漂っているときに、島に住人がいるかどうかを確かめるために放った雁股の矢にちなむ泉です。矢の刺さった場所からこの泉が湧いたとされています。
※保元の乱
平安時代末期の保元元年(1156年)に崇徳上皇と後白河天皇が対立して、上皇側に天皇側が奇襲を仕掛けた事件。この戦いに敗れた源為朝は伊豆大島に流された。
僧俊寛の墓
平安時代に京都鹿ケ谷で平氏(平清盛)討伐を企てた鹿ケ谷の陰謀に失敗し、喜界島に流刑になった源氏の流れの高僧、俊寛の墓です。喜界島で流人生活を過ごした俊寛は1180年(治承4年)37歳の生涯を喜界島のこの地で終えました。 この地を「ボーズンメ(坊主前)」と呼び、花や線香が絶えることなく供えられています。
墓石の下からは人骨も発見されました。人骨を調査した結果、島外の相当身分の高い人物であったこと、刀傷があったことから、俊寛本人の人骨ではないかと言われています。
平家上陸の地
1185年4月25日、壇ノ浦の戦いで敗れた平資盛、平有盛、平行盛らは奄美大島や加計呂麻島に渡る前に、最初に喜界島は志戸桶集落の沖名泊に上陸したといわれています。平家が上陸してから800年後、この地に「平家上陸之地」の碑が建てられました。
平家森
1202年、平盗盛を主将とする平家の残党200余名が志戸桶の「沖名泊」に流れ着きました。上陸後は源氏の追っ手に備えて陣地を作り、現在の早町港の監視と海上の見張りをした場所が「平家森」と言われております。