御殿の鼻
1466(文正4)年、喜界島は大島諸島(奄美、徳之島、与論、沖永良部、喜界)の中で唯一琉球王国への忠誠を拒み続けていました。 これに対し、当時26才の尚徳王(琉球国王)は自ら軍を率いて喜界島討伐に乗り出しました。 ここ「御殿の鼻」は尚徳王が率いる兵2千余、軍船50余隻を最初に島民が迎え撃った場所だと伝えられています。その後、数日に渡る戦いの末、 喜界島は琉球王軍に制圧され島の首長は打ち首になります。 当時の島の首長一派は平家の残党だったともいわれ、名門平家の誇りが琉球からの支配を拒み続けた要因だったのかもしれません。
また、この場所はノロが集まり祭祀を行う祭場でもありました。
石敢当
島の各集落のT字路の突き当たりには、多くの「石敢当」 を見る事ができる。そのいわれを島の人は「T字路にはシチーという天にも届くような煙のような魔物が立って、人の 往来を妨げるので、石敢当を建てて魔物よけにするのだ」という。伝来は、はっきりしないが、中国から琉球を経て伝わった物とされ、恐らく慶長以前には行われていた といわれる。喜界島のものは中国に比べ小ぶりで古い物は石灰岩に「石敢当」と彫られ、中には「石」とだけ彫ったものも 見受けられる。”石敢当とは力士の名で、西漢の頃の人、あるいは晋の愍帝の頃の人”だというが、それとは別に石に対する 信仰から徐災を明示する目的で彫られたとする説もある。 ※『喜界町誌』より
喜界島の信仰 (ノロとユタについて)
ノロ・・・ 琉球では古くから功労のあった者をその地方の行政上の長官に任命すると同時にその妻、 姉妹をノロ(祝女)に任命し一切の神事祭式を司らせていました。 又一方では政治に利用し祭政一致の女人政治を行っていました。
奄美大島も琉球に入貢後、ノロが任命され喜界島では野呂久米、 野呂久女などの字が使われていてノロの主な者は首里の辞令を受けている者もいました。
喜界島では明治維新まで各集落の氏神などの祭祀はノロが行っており維新後は男の神官に 代わっていきました。ノロは神事のほかに(ウラナイ、ハライ)なども行っていました。
ユタ・・・ユタはノロと違い公に認められた者ではなく(ウラナイ、お祈り、マジナイ) などを業とするものでノロは女に限られていたのに対しユタは男も含まれています。
※『喜界島 見てある記より』より
勝連屋敷跡
15世紀の中葉、琉球領内において勢力があった勝連の勢力が喜界島に進出していて この屋敷に勝連親方が住んでいたと伝わっています。勝連親方の「親方」とは琉球王国 の位階のことだそうです。屋敷内に力石と称する二個の石がありますが琉球三山時代に 勝連の殿様が城を築いた際、喜界島民に夫役が課され全島の若者を集めてこの石を持ち上げさせて 体力を試し夫役の人夫として使えるか判断したという由来があるそうです。
※『喜界町誌』より