トバヤむちゃ加那物語
その昔、奄美の加計呂麻島(かけろまじま)の生馬(いけんま)という村に、ウラトミ(マシュカナともいう)という、それはそれは世にもまれな美人がいました。
当時は薩摩が琉球王国を征服した頃で、島津の統治下にあった奄美諸島にも竿入り奉行が来て検地がおこなわれました。 奄美では、奉行のことを竿入殿(そちどん)といい、その権力は大変なものでした。
竿入りが加計呂麻でも始まると、美しいウラトミはすぐに奉行の目にとまりました。
奉行はさっそくウラトミの家を訪れ両親にウラトミを自分のアンゴ(現地妻)として差し出すよう要請したのです。
しかし、これをウラトミは拒みました。両親も何とか説得しようとするのですが娘の態度は変わりません。 それからも奉行はあの手この手で迫ってくるので、ウラトミは山の中の奥深くへ逃げかくれてしまいました。
おこった奉行は一家にはもちろん、村中に重い税をかけるなど陰湿な仕打ちをおこなったのです。
村にまで迷惑が掛かってはいけないと思い悩んだ両親は、ウラトミを小舟に乗せ、身の回り品や食料、飲み水、三味線 を載せ「生きながらえてくれ」と祈りながら、海に押し流しました。
その頃、奄美大島の隣島、喜界島でも竿入れのまっ最中でした。
ある日、喜界島の小野津村の役所で、役人がその日の竿入りの計算をしていると、沖の方から なにやら三味線と美しい歌声が聞こえてきます。役人たちが声のするほうを眺めていると小さな舟が岸の方に近づいてきます。
しばらくすると小野津のトバヤの海岸には、そのしらべに聞きほれた沢山の人たちが集まってきました。
浜辺に流れ着いた舟から降りてきたのは、いままで見た事もないような美しい女性でした。
加計呂麻からウラトミを乗せ流された小舟は幾日かの漂流後、喜界島の小野津村へ流れ着いたのです。
その後、彼女は村人みんなの前に案内され、奉行や役人などを含めて輪になり彼女を歓迎する大酒宴となりました。
彼女は酒宴の間、一時も弾く手を休めず、歌い続けました。奉行や役人たちは、酔いが回るにつれ、入れかわり立ちかわり 「一献を」と杯をさしだすのですが、頭を軽く下げてほほ笑むだけでやめようとはしません。
ところが、彼女の前に来た島役人、国吉が杯を差し出すと、今まで弾き歌い続けていたのをピタリとやめ、うやうやしく 杯を受けとり、一息に飲み干しました。
やがて二人は夫婦となり、神宮の海岸に群生するアダンの山を切り開いて山羊小屋のようなそまつな家で暮らし始めました。
二人の生活はとても貧しいものでしたがムチャカナという娘もでき平和な日々が過ぎていきました。
年月は経ち、二人の娘であるムチャカナが年頃になると、母にも劣らぬ美人に成長しました。
ムチャカナの美貌は他の村でも評判となり、彼女を嫁にしようと多くの男達が集まりました。
これを見た村の女達は面白くありません。嫉妬に燃え、ついにはムチャカナを殺す計画を企て始めたのです。
ある日、村の女達は、ムチャカナをアオサ(海苔)摘みに誘いました。女達の計画を知るよしもないムチャカナは、女達の誘うままに 出かけていきました。早春の頃になると、荒波の所ほど、みずみずしいアオサが生い茂るのを知っている村の女たちは荒波のそばで アオサ摘みに夢中になっているムチャカナの背後に忍び寄り後ろから海に突き落としたのです。
夕暮れになっても帰ってこないムチャカナを心配して両親は家々を訪ねまわるのですが、だれも知らないと言います。
母、ウラトミは狂ったように海辺を探し回りますが娘は見つかりません。
次の日も、またその次の日もムチャカナは帰ってきません。村のみんなはヘトヘトに疲れあきらめかけていましたが、父と母だけは なおも重い足を引きずり杖にすがって山に登っていきました。山の上から浜辺を見下ろすと遠くの方で一群のカラスが 舞っています。「もしや」と思い山を駆け下り海へ走るとそこには変わり果てた娘、ムチャカナの姿があったのです。
父と母は狂ったように亡くなった娘をむしろに包んで泊まりの小山に埋め、杖にしていたガジュマルを卒塔婆(そとば:死者の供養の ために立てる木の板)代わりにさして冥福を祈ったという事です。(この時のガジュマルは大樹となり「トバヤ(十柱)ガジュマル」と呼ばれるようになりました。)
その後も母ウラトミの悲しみは消える事無く、ついには崖から身を投げ娘の後を追ったのだそうです。