史跡(太平洋戦争関連)

現在の喜界島空港は太平洋戦争後期は沖縄へ向かう特攻機の中継基地でした。

戦闘指揮所

太平洋戦争後期、現在の空港周辺は沖縄の敵艦隊へと向かう特攻機が整備・給油を行うための中継飛行場となっていました。
この「戦闘指揮所跡」は軍事的な判断、指揮命令が行われていた場所で、特攻隊員も出撃前はこの場所で作戦指示を受けていたと言われています。 いつ建設されたかという事は当時、高度機密であったため不明ですが、現存する戦闘指揮所の建物としては国内ではここに残っているだけなのだそうです。


掩体壕

喜界島は、周囲約48kmの小さい島ながら縄文時代や古代~中世の遺跡があわせて150ほどあります。その中でも城久遺跡群は、10世紀~15世紀の喜界島を代表する遺跡といえるでしょう。奄美大島が見渡せる高台に立地し、遺跡からは白磁やガラス玉、徳之島で焼かれていたカムィヤキ、役所の跡等限られた場所でしか見つからない越州窯系青磁などが見つかっています。当時、城久遺跡群は奄美・沖縄諸島にとどまらず広く東アジアの交流に重要な役割を果たしていたのではないか、などと考えられています。


震洋格納壕跡

大平洋戦争末期、喜界島上陸を目的とした米軍艦船に対して250キロ爆弾を搭載し、体当たり攻撃を計画した海軍の木製小型モーターボート、特攻艇「震洋」(通称:マルヨン艇)の格納壕跡です。
この一帯に数か所あった奥行50メートル程の格納壕には、50艇が格納されていたと思われます。
完成直後の昭和20年2月11日には、187人の震洋隊が配置されましたが、米軍上陸部隊が接近することはなく終戦を迎えたため、出撃することはありませんでした

特攻花

大平洋戦争末期、喜界島から飛び立つ若き特攻隊員に島の娘たちが情をこめて贈ったテンニンギクの花束の種子が落ち喜界空港周辺で見られるようになったことから、この花を「特攻花」と呼ぶようになったといわれています。


爆弾釣鐘

大平洋戦争後、喜界島・奄美群島は8年間、米軍の統治下にありました。
米軍統治下時は自給自足の生活となり、特に金属製品は物資が不足したため、戦時中に使用されていた戦闘機は鍋や釜などの生活用品になり、爆弾の中の火薬はダイナマイト漁で使用するダイナマイトに、胴体は釣鐘などに使用されました。

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